神奈川県馬術協会

 =協会のあゆみ=

▶ 近代史(昭和初期から20年代) 

 昭和4年9月、横浜市中区小港町に倉田治三郎氏によって横浜馬術協会が生まれた。横浜乗馬協会は、当時明治大学の選手として馬術界に著名であった中込義夫氏を主将として「選手訓練」を委嘱した。これによって、その成果は昭和12年、13年ころの神奈川県、関東地区、全国大会及び各乗馬会主催の馬術競技会で横浜乗馬協会の名を大きく発揚した。
 昭和12年、日華事変勃発とともに多くの若者が出征して行った。馬術もスポーツとしてだけでなく兵役の訓練の一部として、夜間も馬場に電燈を設置し、訓練が強行された。昭和16年12月8日、太平洋戦争が開戦となり騎兵師団も機甲師団に編成変えとなり、馬を失った騎兵隊は戦車隊として戦った。昭和20年、横浜乗馬協会は最後に残った10頭の馬を騎馬警官隊に寄贈した。同年6月29日の米空軍B29爆撃機の空襲を受け横浜乗馬協会の施設は全焼した。これによって横浜乗馬協会は消滅した。

▶ 協会の発足(昭和20年以降) 

須藤英雄氏は、昭和21年3月に神奈川乗馬クラブを創立し、国民体育大会(国体)の開始とともに神奈川県から第1回国体に出場し、その後引続き国体に参加した。須藤英雄氏は、昭和22年1月に社団法人神奈川県馬術協会(馬術協会)を農林大臣認可を得て設立(登記)し、翌年10月に馬術協会が発足して神奈川県下の乗馬愛好者の連合体となった。麻布獣医大学は、戦後(昭和20年8月15日終戦)相模原市淵野辺に移転し、その後の神奈川県国体参加選手の有力な戦力となった。また、昭和26年、全日本馬術大会が三ツ沢公園陸上競技場で開催され、馬術協会の名が全国の乗馬団体に知られることになった。
昭和30年10月に第10回国民体育大会が神奈川県川崎競馬場で開催され、麻布獣医大学馬術部、法政二校馬術部及び馬術協会役員の骨身を惜しまぬ協力によって、国体は成功裏に終了した。昭和53年4月の馬術協会の会員数は、20団体、個人会員160名となった。須藤英雄会長は、平成2年まで会長として43年間の長期に亘り会長を務められ、神奈川県国体選手団を毎年派遣するなど、神奈川県下の馬術振興と発展に貢献した。その後小泉俊久会長が平成14年まで就任した。そして、久保寺邦夫会長(平成16年まで)、碓井 進会長(平成22年まで)、中馬昌平会長(平成24年まで)、そして現会長の天野 望氏が就任している。
<大学等の名称は、当時のものである。>

▶ かながわ・ゆめ国体と津久井馬術場の建設 

第53回国民体育大会は、平成10年「かながわ・ゆめ国体」として神奈川県開催が決定され、神奈川県(国体局)は馬術競技会場として手を挙げた津久井町に馬術競技開催を決定した。小泉俊久会長は、当時の天野 望津久井町長に働きかける一方、神奈川県碓井 進国体局長に神奈川県有の「津久井馬術場」建設を天野町長とともに要請した。
神奈川県津久井馬術場は、総工費23億円を要し、神奈川県は県債による資金調達により建設された。かながわ・ゆめ国体馬術競技は、神奈川県及び馬術協会役員と関係者等の協力と支援により成功裏に終了した。
神奈川県は、かながわ・ゆめ国体終了後「神奈川県津久井馬術場の存続」を決定し、他の国体主催県が実施会場を取り壊すのに対し一部縮小されたとはいえ馬術場の存続を決定し、神奈川県馬術関係者の大歓迎を得るとともに神奈川県馬術の聖地となった。

津久井馬術競技場外観